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佐々木 宏(ささき ひろし、1931年 - )は日本の建築家、建築評論家、近代建築研究者。アカデミズムに属さず、自ら設計事務所を経営する傍ら、在野の研究者というスタンスを貫いた。唯一在職した法政大学では、非常勤講師の立場を通した。しかし、在野であるために何者にも遠慮することなく辛辣な批判を加える立場を崩さなかった。 == 経歴 == 1931年北海道小樽市に生まれる。北海道大学に入り、当初数学を目指したが、教師のアドバイスにより断念して建築へ転向〔『日本建築界の明日へ』馬場璋造、2014、鹿島出版会〕。立原道造に傾倒して学内誌に立原論を投稿。在学中からアメリカの建築雑誌『アーキテクチュラル・レヴュー』を購読し、以来海外の建築動向には一貫して注目。卒業論文は「シェル、その形態と空間」。卒業後、上京して東京大学大学院に進み、池辺陽の研究室に入る。浜口隆一に提出した修士論文は「機能主義建築について」〔『どうやって近代建築を学んできたか』2012、私家版〕。 そのころル・コルビュジエのフィリップス館を『国際建築』に紹介。以来、数多くの建築雑誌を舞台に海外建築の紹介と評論を続ける。とくに当時日本にはほとんど知られていなかった建築家たち、アントニオ・サンテリア、フーゴー・ヘーリンク、ハンス・シャロウンなどの重要性にいち早く気づき、彼らを熱心に紹介した。それらの文章はのちに『二十世紀の建築家たちⅠ・Ⅱ』(相模書房)として刊行され、近代建築の多様性を知る貴重な文献になった。 1964年シベリア経由で渡欧したのを手始めに、欧米の近代建築を繰り返し視察、執筆や講演を通してヨーロッパの近代建築とくに北欧の近代建築を精力的に紹介し、若者たちに大きな影響を与えた。のちに若き安藤忠雄がその講演を聞いて奮起しヨーロッパへ旅立ったと語っている〔『INAX REPORT/190』2012年4月20日 株式会社LIXIL〕。 その間、多くの著書、翻訳書を出版したが、中真己のペンネームで書かれた『現代建築家の思想—丹下健三序論』は戦中の建築家たちの戦争協力の実態を検証した問題の書。また、『新建築』に連載し、のちに単行本になった『近代建築の目撃者』は今井兼次、村野藤吾、堀口捨己、土浦亀城、山口文象など、巨匠たちの戦前の欧州体験を聞き出して記録した貴重な記録である。〔『近代建築の目撃者』1977、新建築社〕 ル・コルビュジエの門をたたいた日本人建築家たちを描いた『巨匠への憧憬』をはじめ、ル・コルビュジエに関する研究は一貫しており、“ル・コルビュジエ学”の必要性を提唱している。 1964年から大江宏に請われて法政大学で非常勤講師として「建築思潮」の講義を受け持ち、三十数年に渡って近代建築の潮流の研究と教育に取り組んだ。 建築の設計は大学院の在学中に始め、1969年に設計事務所「佐々木宏建築研究室」を開設、以来三十数年にわたり設計を続けた。住宅、病院、研究所、工場など精力的に取り組んだ。膨大な執筆活動はこの設計活動と平行して行われたものであった。 1995に『「インターナショナル・スタイル」の研究』を出版と同時に東京大学の博士号を取得した。主査は鈴木博之。この研究では、フィリップ・ジョンソンによってヨーロッパから導入されたモダニズム建築、インターナショナル・スタイル導入のきっかけをつくったニューヨーク近代美術館での展覧会をめぐる問題が詳細に検討されている。 いかなる学閥にも属さず、実務の知識に裏付けられた膨大な知識から繰り出す独自の視点はユニークであり、歯に衣着せぬ論評は研究者たちを震撼させるものである〔『近代建築の目撃者』しおり「教科書に語られなかった建築のほんとうの面白さ」長谷川堯、1977、新建築社〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木宏 (建築家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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